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れるなら古代文化史の研究に大きな手がかりを与えることが期待される。

(2)貝紫染めの実践

佐賀県吉野ヶ里遺跡から貝紫が出土したことを契機に、有明海産のアカニシを用いて貝紫の染色性について検討を加えてきたので紹介する。それは貝の入手から始まる色素の調整法、建染法による染色の条件と発色性、ならびに各種繊維への染色性などである。また主に日本近海に得られる貝紫を生ずる貝や貝紫染めを行った糸や布などを展示するとともに、イボニシによるすり染めの実演をも行う。

(3)貝紫の化学

貝紫は化学の歴史の中で鮮やかな存在であるが、生体内の色素前駆体から発色にいたる過程でさまざまな興味ある話題を提供している。どのような貝に色素前駆体が何種類、なぜ存在するのか、どのような反応で発色にいたるのか、色は何種類の物質に対応するのか、光による色の変化や退色などについて述べる。また貝紫の材料となるイボニシは辛味を有しており、動物性の辛味物質は知られていないので、その点についてもふれる。

(4)日本における貝紫染め

日本では志撃半島で海女が魔除けにイボニシの鯛下線分泌液で手ぬぐいに文様を記していたことを除けば、貝紫染めは行われていなかったものと考えられていた。ところが1991年、吉野ヶ里遺跡から出土した織物片に貝紫が付着していたことからマスコミ等で日本でも貝紫染めが行われていたとして大々的に報ぜられた。しかしこの報道の根拠を科学的に検討すると、古代日本では貝紫染めが行われていたにしてもごく限られた地域に偶発的になされていたにすぎないと考えられる。また日本産のアカニシで染めたものは比較的赤みの少ない紫色となることが注目される。

(5)中性ヨーロッパにおける青の上昇

14,15世紀のヨーロッパ、とくにフランスでの色の倫理観について述べる。身分社会では衣服は社会的身分を表し、それを具象化するものが衣服の色で、とくに緋色と青色が立つ色して関心がもたれた。それをジャン2世とシャルル5世の遺産目録中の毛織物の購入品中にみると、後者には明らかに青の上昇がみられる。それまで青色は主として庶民の色であったが、王の衣服にまで入りこんできた原因は、オリエントから持ち込まれたインジゴと農民が用いた大青との色の差として論証できる。

(6)近世日本における藍の流通

江戸時代の阿波を中心とする藍の取引状況について紹介する。徳島県の吉野川下流はしばしば洪水に見舞われ水田耕作には不敵であった。しかしこのことが藍作りに最適な土地を残すことになり、阿波藩主、蜂須賀侯がこれに着目し奨励したため、江戸末期には阿波藍は全国随一の生産量をほこるようになった。また江戸時代になると幕府が綿布着用を強制したことから、綿作が全国的に普及し、紺屋が生まれて藍の需要が急増した。これがまた阿波藍が大量生産されたことにつながる。

(7)天然藍の現状と染色方法

藍の種蒔きから始まり、刈り取り、すくもづくり、藍染めまでの藍の一生を紹介し、1998年に予定されている藍フェスタ(アジア圏)についてふれる。より具体的に刈り取った葉藍を発酵させるため、床の上で葉藍に水を打ち、切り返しを行うことからすくも出荷までの工程、ならびに建染めによる藍染めの過程を詳述する。

(8)藍発見のドラマ

正倉院御物にある藍染めの中で最も有名なのは縹縷(ハナダノル)で、日本最古の藍染めである。天平勝宝4年4月9日、東大寺大仏開眼会に用いられたのがこの紐で、参列者がこれに手を添えて開眼の功徳に浴した。江戸時代は手織りといえば木綿、手染めといえば藍染めを意味したほどで、明治初年には九州から東北まで各地で藍が生産されていたが、主産地は阿波であった。北海道では明治半ばから藍作りが始められ、それまでは東北の藍は阿波から送られていたが、その後は北海道産が供給されるようになった。

 

 

 

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